世に問う!言わずにはいられない
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178.斎藤實記念館にて思うこと 2014年7月27日
高校時代、同じ応援団リーダーのひとりに、当時は随分世話になった、というよりかは散々っぱら迷惑をかけた人物がいる。
彼は私と同じように、短歌を趣味の一つに持っている。その友人から、地元岩手県奥州市水沢区(旧水沢市)出身の元総理、斎藤實夫婦を偲ぶ等短歌大会があるから出品してみないかと、要項とメモ書きが届いた。
実を言うと、短歌のセンスや上手さは彼の方が一枚上手で、冷静沈着な観察眼による独特の表現には、時折ハッとさせられたりする。

私が作る単純で一方的で単細胞な拙歌では、とても出品するのは痴がましいと思ってはいるが、折角の誘いなので一首ひねろうかと思っている。
その為にはまず、実際に斎藤實記念館に赴き、肌で感じ、我が目でしっかりと確認する必要がある。
実は以前にも一度訪問した記憶があるが、何分にも30数年前の高校生の頃だ。外観のイメージぐらいしか記憶にない。そんなことで、仕事の合間を縫って一路水沢へと車を走らせた。

ご周知の通り、斎藤實翁は第30代内閣総理大臣であり、二・二六事件の犠牲となった人物である。岩手県出身の歴代総理5名のうち、平民宰相として知られる原敬第19代内閣総理大臣に次いで2番目に総理となった人物である。
斎藤實翁は1858年10月27日、岩手県奥州市水沢区字吉小路に生まれ、1879年に海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、アメリカで4年間の留学を経験している。

1898年、41歳で海軍次官となり、その8年後の1904年に海軍大臣の任についた。1919年には朝鮮総督となり8年間朝鮮で暮らした。
そして1932年(昭和7年)に第30代内閣総理大臣に任命された。
悲劇はその4年後の1936年2月26日に起きた。武力による強硬路線をよしとする皇道派のクーデターにより、79年の命を閉じた。

前述の朝鮮総督として日本海を渡る事になった経緯は、当時、同じ岩手県出身の総理、原敬翁からの強い要請によるものだったそうだ。それまでの武力統治を脱却し、文治統治をはかる適任者としての判断によるものだったとされる。
斎藤實翁は、犠牲的精神や利他主義を重んずる人物であり、1932年、当時75歳の高齢にも係わらず、周りからの強い懇願により、止む無く、老骨に鞭打ちながら総理の任を承諾したとのことだった。

当時、統制派として、我が身を挺し、戦争などの争いを避けるべく、右寄りな強硬派の鎮圧に努め、「自力更生」を掲げて国民自らの創意工夫により国難を乗り越え、戦争のない国を実現させようと一生懸命に努力し、尽力された。
また、斎藤實翁の人となりは、勤勉、実直、自分には厳しいが他人に優しく、決して「俺が俺が」と他人を押し退け、私利私欲や名誉欲に取り憑かれ、強引に権力にしがみつこうとする狭量な人物ではなかった。
周りから望まれ、求められながらも犠牲的精神や奉仕の精神を重んじ、世の為、人の為に尽くした人物だった。
もし当時、二・二六事件に巻き込まれず、政治の中枢に在ったならば、民間人含め300万人もの尊い命を失った第二次世界大戦は起こらなかったかもしれない。

回顧談の一節に、孤高の政治家斎藤實は次のような言葉を残している。
「わたしは決して、偉い人間でも何でもないんだ。全く凡人に過ぎない。ただ、何事も一生懸命努力してやってきたつもりだ。そうしているうちに、いつか世間から次々とドエライ椅子に、押し上げられてしまっていたまでだ。」
このことからも、本来の政治家とは決して家業として継ぐべきものではなく、人から望まれ、社会に貢献する者こそが本当の政治家であると改めて知らしめられたような気がする。  

また、斎藤實夫人の春子さんも実に素晴らしい人物であったようだ。
二・二六事件の生き証人として、昭和46年9月14日、98歳でこの世を去られたが、その遺言として、生前から眼球を「岩手医大のアイバンク」に登録しており、遺族はこの遺志をくんで2人の患者に角膜手術を行なわせたとのことだ。
幸いにもその一人が、一関市に居を構え、現在でもご存命であるとのことだ。

一関市民といえば、斎藤實記念館の門をくぐり、エントランスを抜けると、真正面にドンと斎藤實翁の実に見事な肖像画が目に飛び込んでくる。
「よく来たね」と歓迎するかのような眼差しでこちらを見据えている。まるで、今でも息をしているかのような躍動感が伝わってくる。
実はその作者も、一関市出身の千葉雲洞画伯である。
館内は撮影禁止なので、生憎撮影は叶わなかったが、是非とも足を運んで頂き、実物を観て、肌や心で感じて頂きたい。

※ウィキペディアには
斎藤實の雅号を泉水(せんすい)と紹介してあるが、正しくは皋水(こうすい)である。皋水の皋は、沢の旧使いで、生まれ故郷の水沢の「沢」から取ったもの。郷土愛に溢れた人物であったこともうかがえよう。



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