世に問う!言わずにはいられない 「心残り」
何かと住み難い、住み辛い世の中になってきている様に思える昨今、私なりの提言や言いたい事を投稿するサイトです。人それぞれ意見や考えも違いますが、「こういう考え方もあるんだな〜」と、ご理解頂ければ幸いです。
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67.心残り  2010年1月18日
偶然に懐かしくも、再会を果たした。再会と言っても「一冊の本」とである。
未だその本を読んだことはなかったが、その文中に出てくる登場人物とその本の著者とにである。
その本のタイトルは「聖老人」。故・山尾三省氏の著書だ。氏は東京から屋久島に1977年に移り住んだ詩人でエッセイスト、また哲学者でもある。屋久杉で有名な鹿児島県屋久島に一湊という漁村があり、その一湊から山手に4km程上った所に白川山(しらこやま)という集落がある。
氏が移り住む何年か前の台風の際、鉄砲水でその集落が流され廃村になった所である。氏はその集落に家族5人で移り住んだのだった。1978年、NHKの新日本紀行というドキュメンタリー番組があり、詩人・山尾三省一家が紹介された番組があった。

当時その番組を見て、氏の書いた詩、確か「太郎よ」というタイトルだったと記憶しているが、甚く感動してしまったものだった。
この詩は山尾さんが息子に書いた詩であったと記憶している。内容までは思い出せないが、それを見ていてどうしても山尾さんに会いたくなったものだった。
底知れぬ言いようの無い衝動に駆られ、逢う事が私の運命であるかのように思えてならなかった。
当時私は未だ20才の学生であったが、真剣に「弟子入りしたい」と思ったのである。生前、私の祖父が「屋久島には数千年も枯れずに残っているとんでもない大きな杉がある。是非一度行って見たいものだ」と話していたことを憶えていた。そんな事も心の奥底にあって、ふと脳裏を過ぎったのであろう。

結局、両親の反対を押し切って屋久島へと向かった。当時、東北新幹線が開通する前で、東京駅まで各駅停車で行ったのを憶えている。何時間かかっただろうか。電車に揺られながら色んな事を考えた。ただ、山尾さんに逢いたい一念が強くてその他の事はあまり憶えていない。
東京駅からは流石に鈍行で揺られるのは「しんどい」と思い東海道新幹線に乗り大阪へと向かうことにした。高校時代の修学旅行以来の新幹線だった。速い快適である。
大阪から山陽新幹線に乗り継いで博多まで辿り着いた。博多から鹿児島までの道程は憶えていない。おそらく各駅停車だったと思う。屋久島に向かう前に鹿児島で一泊する事になった。安宿を探す為、港近辺を一周したのを微かに憶えている。
翌朝、船に乗って屋久島へと向かった。期待と共に一抹の不安も過ぎったものだった。

4時間ぐらい乗っていただろうか、途中左手に鉄砲伝来の地である種子島が見えてきた。間もなくすると高い山が見えてきたが、それが九州地方最高峰の宮之浦岳である。
到着したのは屋久島の宮之浦という港町だった。そこで一旦見物という手もあったのだが、如何せん目的が違う。
未だ陽も高かったので目的地の一湊へとバスに乗り込むことにした。それ程の距離ではなかったと思う。
早速、山尾さんが住んでいる白川山に向かおうとしたのだが、バスも走っていない。4km程の距離なので、「徒歩で」とも考えたのだが道に迷っても困ると思い、その日は一湊で宿を探すことになった。

そこは小さな漁村なので、旅館が1軒しかなかった様だった。
とりあえず宿を確保して、大学ノートに此処に辿り着く迄の経路や、
旅の途中で出くわした出来事、聞いた話など綿密にノートに書き込んだ。折角なので、山尾さんが住んでいる白川山への道程を聞こうと、宿の主人に聞いてみる事にして1階へと下りていった。

ご主人に色々話を聞いているところに、卵を配達しにやって来た人がいた。
ご主人がその人に「彼を明日車で送ってやってくれないか」と話してくれたのだが、その人とは、「聖老人」にも登場している内田さんという方で、以前は白川山に住んでいて、今では養鶏場のみ白川山に残していて、毎朝餌をやりに行くそうであった。
旅館のご主人にしろ内田さんにしろ、本当に親切で優しい方達であった。

内田さんは私を自宅に招いてくれ、自家製のゴマ鯖や飛魚を練りこんだ「さつま揚げ」をご馳走して下さった。今でも忘れないがこれが又たまらなく美味しかった。その辺のスーパーで売っている大量生産されたものとは雲泥の差であった。
何処の馬の骨とも分からない若造に、ここまでしてくれる優しさに、その晩、枕を濡らしてしまったことを今でも鮮明に憶えている。翌朝、内田さんが旅館に迎えにきてくれて山尾さんの居る白川山へと向かった。

一本の小川が流れていて、その川を挟んで右側に2軒、左側に2軒(定かではないが)の人家があった様に記憶している。一番手前右手の家が山尾さん家族が住んでいる家だった。
着いたのは午前9時頃だっただろうか。「おはようございます」と、若干の不安が過ぎりながらも、玄関の戸をノックした。その後の記憶は定かではないが、確か、山尾さんが留守にしていて奥さんと話した様におぼろに記憶している。
そうこうしていると、山尾さんが戻ってきて、「これこれこうでかくかくしかじか」と尋ねてきた経緯を話し、「是非勉強させて欲しい」旨を問いかけた。
山尾さんの印象は、テレビでも見かけていたので、とりわけ驚きはしなかったが、小柄な方で優しそうな如何にも人の良さそうな人だった。出来れば住むところもないので、「居候させてくれないか」と、ずうずうしくも話を持ちかけたが、その件に付いては体よく断られた。
突然の来訪で、ましてや、どこの馬の骨とも分からない人間をそう易々と居候させるものではない。
至極当然の事である。結局、住むところは自分で見つける事にして、度々訪問させて頂き、色んな話や勉強させて頂く事を承諾して頂いた。
その日は一旦一湊に戻ることになり、内田さんの鶏舎へと向かった。

その後、旅館に戻り住むところを探すことになった。出来れば旅館で泊まっていたいところだが、如何せん資金も底をつき始めている。結局、又もや旅館のご主人に相談することになった。
色々声をかけて下さって、遂には、一湊で建設会社を営んでいる方を紹介して下さった。
とんとん拍子に話は進み、住まいまで貸して頂くことになった。
確か正屋建設という名前だったと思うのだが、社長もその奥さんも本当にいい人だった。平日はその正屋建設でアルバイトをさせて頂き、日曜日は白川山の山尾さんの所へと、約半年間の屋久島修行が始まったのであった。

前述の「聖老人」という本を初めて手にしたのはつい最近の事である。初版本が出版されたのは1981年10月11日とある。
私が屋久島に滞在したのは1978年、当然世に出ていない筈なのだが、今こうして読んでみると以前に読んだ様な気がしてならない。
何故かと色々記憶の糸を辿っていくと、微かな記憶の中に、山尾さんのお宅にお邪魔した時に、「今原稿を書いているんだ」と言われた様な気がする。
その辺の記憶は曖昧であるが、おそらく、色んな話の中で、ちょっと読まさせて頂いた様にも思えるのである。

「聖老人」のP32の中盤以降に載っているが、地元の島藤さんという方が、この白川山に小屋を建てる際に、棟上が終わったので、お祝いにと焼酎を振舞ったのだが、本文には「日吉と私、たまたま私達の所へ滞在していたクロ(どういう意味かは分からないが)の3人を呼んで」とあるが、そのクロの内の一人が私であったと思う。
後の2人とは、確かイラストレーターだったと思うが、「伊徒さん」という方と、青森出身で元僧侶の「伊東」という方だったと記憶している。
私の苗字は伊藤なので、3人とも苗字の1字目は「い」で始まるが何とも奇遇である。
やはり彼らも、山尾さんの生き様に共感されたのだと言っていた。
山尾さん宅と小川を挟んだ対岸に彼らの家があった。家といっても、雨露を凌げるだけの安普請である。しかしながら、彼らの家に案内されて入ってみると心地の良い「温もり」を感じたものだった。今、どうしているのだろうか。

私が屋久島で生活をしていた期間は約6ヶ月。その間、お世話になっていた正屋建設の倉庫の2階を借りて寝泊りしていた。
その建設会社で働いている人達も本当に親切で優しい人ばかりであった。
夕飯に呼ばれ、お風呂に呼ばれ、本当にお世話になったものだった。

中には、私がみすぼらしい格好をしていたのを見るにみかねてか、「これ息子のお下がりだけど着てちょうだいよ」と衣服や靴までも頂戴し、息子の居ないオバちゃんは、わざわざ買ってまでしてくれたものだった。

その中でも、「文おりさん(おりとはオジの意味)」というオヤジさんがいて、しょっちゅう夕食に呼んでくれたものだった。
その文おりさんはお酒が大好きで、毎晩の様に晩酌をしていて、私も必ずといっていいほど付き合わされたものだった。

勿論、飲むのは芋焼酎、それもストレートである。
私は、最初鼻に「つんとくる」のがいやで嫌いだったのだが、
    この詩は、私が屋久島の白谷雲水峡に登った時、
    屋久杉の七本杉を初めて見た時に、あまりの迫力に圧倒
    され感動し書いた詩である。
次第に慣れてきた所為か、その芋焼酎が好きになってきたものだった。
ある時はべろんべろんに酔っ払い、そのまま焼酎の瓶を枕に泊まることもしばしばだった。

私が屋久島を去る時に、その文おりさんとある約束を交わしたのであったが、30年以上経った今でもその約束を果たしていない。
その事ばかりが、今でも心残りである。
当時、文おりさんの本業は鯖漁船に乗って一本釣りをする事だった。
酔った席で、「俺の右に出る者はいない」と豪語していたものだったが、他の人もそれと同じ事を話していた。
皆そう思って「誇りを持ちながら」鯖漁をしていたということなのだろう。鯖の話が出たので、ご紹介するが、この辺ではゴマ鯖と呼んでいた。屋久島の人達は、一般的に刺身で食べるのが普通である。これが又実に旨いのである。しこしことしていて食感もいい。
勿論新鮮だという事もあるのだが、1日ぐらい経っても刺身で食べるられるのである。
一般的には「鯖の活き腐れ」と云われるほど傷み易い魚なのだが、この辺で獲れる鯖は種類が違うという事だった。

文おりさんも、鯖漁が最盛期になると一本釣りに出るのだが、その釣りでは、針先に黄色い布を使った疑似餌を使うのだそうだ。
それもただの布ではなく、当時、埃を落とすために使っていた「タタキ」というのがあったが、その黄色が一番釣れるとの事だった。
皆も使うので、屋久島ではなかなか手に入らなくなったという事だった。
そんな事もあって、屋久島を離れる時に、「買って贈るから」と約束したのだった。
ところが、帰りの途中、東京駅のコインロッカーで、ちょっとした油断から、今迄背負って大事にしていた大きなリュックを盗まれてしまったのである。本当に迂闊だった!
そのリュックの中には、文おりさんの住所や、オバちゃん達に頂いた衣服、短歌や詩を半年間毎晩の様に書き綴った大学ノートが5・6冊入っていたのである。
文おりさんも生きていれば、もう既に90歳を超えているだろう。本当に悔やまれて悔やまれてならない。約束を未だに果たしていない。この事だけが私の一番の心残りである。
・・・


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